2015/5/24 へたな考え休むに似たり(構造主義、体外離脱と臨死体験)

肉体という「着ぐるみ」に穿たれた2つののぞき穴を通して外界を見ている「自分」とは一体なんなんだろう。この疑問は凡人も哲学者も等しく思うことらしく、哲学は自我にたいしての懐疑を出発点としているといいます。人生をかけて探求すれば哲学者になり、私のようにただぼんやり思っているだけだと、ずっともやもやしたまま過ごす事になります。

そんな青臭くて難解な問題が私の頭の中にフェードインしてきたのは、最近スマホやパソコンの文字を追うばかりで、ちゃんとしたものを読んでいないな と、たまには頭を使う書物を読まないとボケるんではないかと心配になり、敢えて難しそうなテーマの本を読んでみようと思い立った訳です。では、どんなものが良いかと考えてみると、確か「構造主義」という言葉をどこかで見たことを思い出し、○○主義とは難しそうだし、これならボケかかった脳も少しは活性化するかもしれないと思い、「構造主義」をアマゾンで検索するが、いきなり上級者向けのものはキビシイので、入門書的なタイトルのものを2冊ばかり買って読んでみることにしました。

今までの経験からして「寝ながら学べる」や「はじめての」とかをタイトルに冠していても説明しようとする対象は本格的なものと変わらず難解な訳で、三日でわかるものと期待した分、がっかり感は半端ないわけで、考えてみれば寝っころがってぼんやり眺めていてわかるほど甘くはないのですが、とにかくわけもわからず読んでみて、多少なりと理解できた部分の断片を拾い合わせて納得したような気分になるだけでも、ボケ防止に資するのではないかと思った次第です。

構造主義が流行る前の1960年代頃までは「実存主義」が幅を利かせていたのだそうです。

実存主義がどんな主義かは知りませんでしたが、天才バカボンかレッツラゴンのどちらか、いずれにせよ赤塚不二夫作品だと記憶しますが、登場人物(動物だったかも)が、ぶたれたり、池に落っことされたり、ひどい目に遭うと「実存的だわ!」というセリフをはく場面があって、それがどういう訳かお気に入りで、肉体的にハードというか、精神鍛錬あるいは切磋琢磨というか、その手の四字熟語が並びそうな私の苦手とする主義かな程度に見当をつけていたので、実存主義の名前だけは記憶にあるのだ。

その後、実存主義者で当時の若者の知的アイドルでもあったサルトルが構造主義の立役者のひとりレヴィ・ストロースと激論を交わす事になります。実存主義(≒マルクス主義)では人間は存在するだけでは無価値とみなします。歴史は必然的に革命に向かうことになるから、無価値な人間は歴史に身を投じて男を上げなさいとけしかけます。

それに対して構造主義はそんな実存主義を「西欧中心主義の世間知らず!」みたいな感じで批判して、多様姓を認めようとする構造主義が人々の支持を得たということでしょうか、あるいは西欧文明の地位の低下と軌を一にしていたのかもしれませんが、これ以降実存主義は勢いを失い、世は構造主義の時代を迎えることになります。

構造主義では人間の意識は構造に支配されているそうで、言語学や人類学や数学などの考え方を人間社会の色々なところに適用して発展してきたということでしょうか。音韻論や贈与論などの考え方も重要なんだそうです。

贈与論は、人間社会において、男は、別の男から、その娘またはその姉妹を譲り受けるという形でしか、女を手に入れることができないし、女をもらい受けた男には「反対給付義務」が生じそれが世の中を回しているなどとギャートルズ的なことを言っています。

これらの話が具体的に構造主義とどのようにつながっていくのかは付け焼刃ではわかりそうにありません。

ただその中に幾何学の一つである射影幾何学の説明があり、いかにも難しそうなこの射影幾何学の項は、意外にも比較的腑に落ちるような気がしました。正方形の紙の背後から照明をあててスクリーンに投影し、紙を傾けたりまわしたりしながら色々な形に変化させる。映し出された影は長方形やら台形やら菱形など無限に変化する。今までの幾何学(ユークリッド幾何学)では長方形と台形、菱形を別の物ととらえていたが、構造主義では元はひとつということで考えるらしい。このスクリーンに映し出されているものが我々が正に自我と思い込んでいるものだということなんでしょうか?この例えは自分とは何だろうとぼんやり思いながら長年生きてきたためか少し納得できました。

全編通して満足に理解できませんでしたが達成感だけでも得たいと一応すべて読み切ったあと最も印象に残ったものがジャック・ラカンの「鏡像段階の理論」というものでした。これは立花隆氏の「臨死体験」に関する一連の番組と著作を思い出し、何か符号するものを感じて興味深かったからです。

「鏡像段階の理論」は構造主義のもうひとりの立役者ジャック・ラカンが唱えた理論で、生後間もない赤ん坊は知能がまだ未発達で自分と身体がひとつのものであるという自覚がないのだそうです。しかし生まれて半年から1年半ほどたったある日、鏡の中に映った自分の像を見てこれは「自分」であると発見し、その段階ではじめて身体的統一性を獲得するのだそうです。

つまり私たちの人生は生後間もない段階で、部屋に置いてある人形と同じく鏡に映り込んだ像という自分ならざるものに自我を発見するという不条理を孕んでいることになります。

因に、ニーチェは「われわれはいつもわれわれ自身にとって必然的に赤の他人なのだ。われわれはわれわれ自身を理解しない」と言っています。

自分の関知しえないところに主体(厳密には何と言ったら良いのかわかりませんが)が存在する、感情や感覚も含めて全て自分では認識することもコントロールすることもできずに、スクリーンに投射された像の如く虚像を現実と思い込んでいる。そんなことを考えて思い出したのが立花隆氏の臨死体験のTV番組とそれに関するいくつかの著作物なのでした。

臨死体験とは心停止後、肉体という楔から解放された時に、人は何を見るのかということを蘇生した人を中心に取材をした番組で、放送できなかった分は「臨死体験 上・下巻」にまとめられています。

臨死体験に興味を持ったのは1991年にNスペの枠で放送された「立花隆リポート 臨死体験〜人は死ぬ時 何を見るのか〜」を見て以来で、これが第一弾となります。それまでNスペ枠は時事問題や科学・政治問題などを扱うマジメな番組という認識だったので、臨死体験・体外離脱(幽体離脱とも呼ぶらしい)という現象は興味本位の心霊現象として眉に唾して見聞きしていたので、あのNスペで立花隆さんが取材した番組を放送するのは意外で、印象深かったし、これは一体何なんだ?と思ったものでした。

最初の放送では臨死体験がおこる場所として「シルヴィウス溝」という脳の器官について説明されていました。ワイルダー・ペンフィールドという脳神経学者がてんかんの治療をしている際にこの部分を刺激すると臨死体験の要素体験と同じ体験をする部位があると発見しました。

要素体験とは、自分の肉体から意識が抜け出していく体外離脱体験であるとか圧倒的な愛に包まれる感覚であるとか、既に死んだ人々と意識の交信を行うとか、自分の人生を走馬灯のように振り返るなど、体験者の多くが証言する共通体験のことです。

たしか最初の番組では当時の実験風景映像が出て開頭した状態の患者の様子が出てきたような気がします。死に際してのみ機能するこんな器官がなぜ人間には備わっているのだろうか?と不思議でした。

走馬灯と言えば、伊丹十三監督の「タンポポ」の中で銃撃されたヤクザ者が死に際、情婦の腕に抱かれて、山芋だけを食べているイノシシの山芋腸詰め料理のことを愉悦の表情で語る場面がありました。どうだうまそうだろと女に話して聞かせた後(情婦は「そうね、わさび醤油なんか合いそうね」と返事して)さあ人生最後の映画が始まると言って男は死んでいきます。

世界中の医療機関や研究所で集められた膨大な数の証言は3つに分類できるようです。1つ目は明らかな虚偽や思い違い、2つ目は嘘や思い違いではないが客観的証拠が不足しているもの、3つ目は体験した本人にしか知り得ない情報が客観的に証明できるもの。3つ目の疑いようのない証言は本を執筆するにあたって自らでインタビューしたところ残念ながら1例のみでした。

立花さんの関心は臨死体験が脳内でおこる現象なのか、現実体験として起こっているのかということです。死の恐怖とストレスによる生体防御反応として分泌されるドーパミンやセロトニンなどの脳内物質により引き起こされる幻覚や幻聴による神秘体験ということであれば、肉体を脱ぎ捨て、苦痛から解放された後、今まで経験したこともない究極の癒しと大いなる愛にいだかれる感覚を、脳機能が人生最後のご褒美として長年愛用してくれた持ち主にプレゼントしてくれているということもできます。

立花氏も基本的には脳内現象説をとると言っていますが、脳内現象では説明できない事例がかなりの数存在するため、脳内現象なのであろうと考えつつも、現実体験であるということも捨てられないと結論づけています。というのもこの臨死体験がからむような、生命科学、脳科学、あるいは人間の意識、心理がからむような広範な問題になってくると科学は何もわかっていません。ニュートンが「真理の大海を前に砂遊びをする幼子に等しい」と言った当時と状況はほとんど変わっていないのです。

最新の物理学によれば宇宙(つまり我々の肉体も肉体に接する空間も宇宙空間に含まれるわけです、よ、ね?)は10次元だったか11次元だったかでできてるって話でしょ。それを3次元の大海の前に佇む幼子が11次元って、、、、

つまり、科学は私たちが認識も言語化もできない「何か」があるよって言ってるに過ぎないんでしょうか?

前述の脳科学の世界的な権威であったワイルダー・ペンフィールドは若い頃、脳研究こそが精神世界の神秘を解き明かす唯一の方法であると考え、別荘の庭石に「精神=脳」という図式を刻みましたが、いくら研究に研究を重ねても脳内に自己意識の中枢がちっとも見えてこないため、晩年彼は庭石に刻まれた「精神=脳」の「=」を「?」に書き換えたのだそうです。

今年の1月には、1991年放送の続編とも言える「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」が放送されました。前回は臨死体験の存在や研究者、学会の動向や体験者の発言を網羅的に紹介する必要があったため早口すぎて、見る側に幾分オカルティックな印象を与えてしまったような気がしましたが、今回は数は少ないが立花さんがこれぞと思う証人へのインタビューと自我とは何かということに踏み込んで取材しています。

スウェーデンのカロリンスカ研究所では立花氏自らが被験者として実験も行っています。

被検者と隣のベッドで人形を寝かせ人形の目の位置に人形自身の体を見下ろすようなアングルでカメラを取り付ける。被検者はヘッダマウントディスプレーを装着し人形のカメラが映し出した映像をそのまま表示する。

つまり被検者のディスプレーには自分の体が存在するべき視野に人形の体が映し出されている。そして人形の体に何かが触れる映像を表示するとあたかも自分の体を刺激されているような錯覚を覚えるというのです。意識と肉体が分離した状態を実験的に体験できるわけです。

人間の脳の錯覚を利用しているのはテーマパークのアトラクションや最近では3Dシアターなどでも体験することができるし、ガソリンスタンドの自動洗車ではトンネル状の洗車機がドライバーを乗せたまま車の前後を行ったり来たりするだけで、自分の車が動いているとしか思えなくなる。人間の肉体感覚というのは斯くも簡単にだまされるものなんだということは日常的に体験することだと思います。

肉体というフレームワークにがんじがらめにされた意識がこれを取っ払ったときに何を見るかどんな体験をするかはいにしえから人々の興味の対象になっていたようです。

プラトンは「国家」の中で、戦死して十日ばかりたって火葬場の薪の上で突然生き返り、死んでいた間に見聞したあの世の様子を話して聞かせたという不思議な事件の事を「戦士エル」の物語として残しています。

日本でも、10世紀頃比叡山の源信という僧が念仏結社を造りそのメンバーの誰かが病気になり死を迎える時に結社のスタッフの幾人かがつきっきりとなって病人の耳に口を近づけて「今何が見える?」と聞いてみていたそうです。

私がぜひ知りたいと思ったのは、肉体的なしがらみから解き放たれるということは全盲の人、聾唖の人、認知症の人、あるいは脳に重大なダメージを受けた人はどうなのかということ。

脳の束縛すら超越したものだとすれば健常の人と同様に鮮やかな風景が展開されるはずで、取材した中で全盲の人のケースが一例だけあったが、調べてみると虚偽の報告であったということで、取材対象が少ないということもありハンディキャップを負った人たちの証言はまだ少数のようです。もっとも重度の認知障害や脳に重いダメージを受けた人の場合は蘇生したとしても、伝えることができない訳です。

認知や脳の損傷でついさっきまで前後不覚の状態であった人が心停止後、自分を見送る家族と医師の姿を見ることができ、清らかな音、鮮やかで癒される強い光を体験して要素体験にあるような圧倒的な愛で包まれるとしたら救われた気分になります。

生まれて間もなく実際の我が身ではなく鏡に映った自分の姿を自分であると認識する。つまり自分ならざるものと自己同一化した我々は、その不条理を抱えたまま人生を全うし、その死に際して、肉体から意識がすり抜けて、自分自身の亡きがらと対面した後、ひとまず役目を終えたエネルギー体として、帰るべき場所である「大いなるエネルギーの海」に向かって、潮が引くように、静かに旅立っていく。

少し強引ではありますが、私はそんな風に考えようと思いました。
単に脳内物質で引き起こされる現象というよりは、はるかにその方が楽しいと思ったからです。
それよりなによりやっぱり「何か」が、あるよね。

そんな「へたな考え」をして連休を過ごしました。


2015/5/24 へたな考え休むに似たり(構造主義、体外離脱と臨死体験)」への1件のフィードバック

  1. 井坂 小雪

    ジャック・ラカンによる『鏡像段階論』の鏡が、単なる鏡であるとすれば、発明以前の人格形成は、どの様にスタートしたのでしょうか?と、この件で『鏡』に興味を持ちました。小説、エッセイ等、漁ってみようと思います。

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