カテゴリー別アーカイブ:

2018/05/26 懐かしの苗場

写真は警察官だった父親が南魚沼六日町署に勤務していた頃、苗場スキー場(当時は苗場国際スキー場)に警備に行った際に撮影したものである。多分1964年の東京オリンピックの頃だと思う。
アングルからして今はなき白樺ゲレンデ側から撮影しているはずである。

まだプリンスホテルもワールドカップロッジも影も形もない。
筍山の頂上まではゴンドラもリフトも伸びておらず、大斜面もまだ存在しない。

確かワールドカップロッジは日本で最初に開催されたアルペンスキーワールドカップのために建てられた施設であったはずである。調べてみると開催年は1973年の3月。それまで苗場国際スキー場内の宿泊施設は、この写真正面にある三角屋根の苗場スキーハウスしかなかったように思う。苗場スキーハウスの裏にある四角い建物は確か従業員宿舎であったような記憶がある。苗場スキーハウスは17号線と平行して南北に伸びる細長い建物で、内部は中央のラウンジの左右に細長い廊下が一直線に伸び、廊下に沿って二段ベッド、ベッドと言っても2畳敷ほどの畳のスペースで、ここにせんべい布団を敷いて雑魚寝をするわけである。一区画大人3人くらいまでは横になることができた。食事はどこで何を食べたのかまったく記憶はないが、多分中央ラウンジにあった売店で菓子パンか何かを買って食べたんだと思う。

ここで我々の下の段を使っていた外人さんに声をかけられたのが、はじめての外人さんとの(英?)会話であった。これはよく覚えている。何度も何度も聞き返して、ようやくおぼろげながら分かったのは、ベッドに食べ物を持ち込むのはレギュレーションに違反しないか?ということであった。外人さんが手に持っていたのが菓子パンと牛乳だったので、食べるものはこの程度のものしかなかったのではなかろうか。

多分米軍の兵隊さんと思われる短髪の若い人だったが、兵営のような味も素っ気もない建物で、いつもしばられている軍規が頭から離れなかったのであろうか?

1972年札幌冬季オリンビック(あのカールシュランツ事件で歴史に名を刻んだ大会である)、そして1973年苗場での日本最初のアルペンスキーワールドカップ。
1973年前後のアルペンシーンといえばイタリアの英雄グスタボ・トエニ全盛の頃、スウェーデンのインゲマル・ステンマルクが新星の如く登場するのはその翌年であったか。

このあたりから「私をスキーに連れてって」(ユーミンの歌の影響か勘違いされている方も多いようだが、ロケ地は苗場ではなく志賀と万座)でお馴染みのバブル期に向かって、日本のスキーブームは絶頂期を迎え、平成バブル景気と軌を一にして、うたかたの如く消えていくのである。
なんとも寂しい限りである。若者たちよ、「彼女をスキーに連れてってくれ」。


2017/10/14〜16 五能線の旅 04


晩ご飯はロビー横の食事処で。鍋があらかじめセットされていた。珍しい醤油ダシの海鮮鍋である。美味しいよね醤油汁。

白和え


エビの真薯を揚げたものと思われる。

お酒は安東水軍。

最後のご飯のおかずに白菜と豚肉の蒸し物。それぞれ美味しいけど、ベストマッチングではないかな。

最後、ぶどうが出て終了。余計なもので品数を増やすこともなく、量もちょうどよくて良かった。

ご飯のおともオールスターが並ぶ朝ごはん。
特筆すべきは「もずく」。シャキシャキとしていつものモノとは全くの別物である。これは買って帰らねば。

翌日は昨日同様、五能線を更に北上し、終点の弘前に向かう。朝から喉を潤すことは忘れない。

生まれ青森五所川原、はぁ、いっぺん来てみねが、の五所川原

お〜いわ〜きぃやまぁ〜で、手をふぅった〜♪、の岩木山

歩いて弘前城へ向かう。途中、郷土料理の店「菊富士」でお昼にする。私は地元グルメ「いがメンチ定食」。いがメンチとはイカのメンチカツが訛って「いがメンチ」になったのである。


有料ゾーンには工事中でゴタゴタしていたのともったいないから入らずに、遠巻きに見るだけにした。本丸はサキッポしか見れなかったが、染まりかけた木々が美しい。

この日は青森まで出て、ホテルJALシティ青森泊、ホテルの真ん前の「一八寿司」で晩御飯。
ここのもずくもやはり昨日、宿で出たもの同様、シャキシャキである。このもずくはうまいなぁ。

鰺ヶ沢の販売センターでも売っていた青森産タコを塩で、タコは塩でも醤油でもウマイ。

焼き穴子。

お寿司はセットで。中々おいしいお寿司でした。特にマグロが美味しかった。ひょっとして大間のまぐろ?


これは翌日、青森駅前のアウガ新鮮市場で魚を買って、市場内にあるラーメン屋さんで食べた煮干しラーメンとホタテ塩ラーメン、ちょっとしょっぺ。
以上、五能線の旅 完